T's Essay: 腹立ち診療日記 アーカイブ
「問題のある患者」
●月●目
患者様は大事な神様のはずなの
に、無性に腹が立つことがある。
上顎前歯6本の形成と印象予定
の患者が、予約の時間を30分過ぎ
ても来院しない。他の患者をキャ
ンセルしてまで無理矢理アポイン
トを取ったのに。しかも、余裕の診
療をしたいのでたっぷり2時問も。
元々この患者は、強引な患者だ
った。「甥の結婚式があるから、そ
れまで何とか前歯だけでも入れて
くれ」と予約なしでいきなり来院
した。前歯にはすり減ったレジン
の継続歯が並び、レントゲンを撮
ると根充も甘く根尖病巣もあった。
歯肉も腫れていて、おまけに臼歯
部のブリッジは咬耗がひどくてバ
イトが下がっている。結婚式まで
の1ヵ月足らずのうちに、エンド
やペリオの処置をして、咬合平面
の修正を終えることはとうてい無
理だということを、初診の時に繰
り返し患者に説明した。ところが、
患者は納得せず前歯だけでも何と
か見た目をそろえてくれ、とドス
の利いた声で注文してくる。気の
弱い僕は、こういうこわもてのひ
とは大の苦手だ。
「金はなんぼでも出す」という
一言に僕のスケベ根性は触発され
て、歯周治療もそこそこに急いで
エンドのやり直しをして、前歯に
テンポラリーの修復までこぎつけ
た。今日印象すればぎりぎり結婚
式前日までに最終補綴物がセット
できるというので、今日の予約に
なったのだが……。
受付が電話をかけてみるが連絡
がつかない。イライラしながら2
時問を過ごしたところに患者から
電話。「仮歯のままでいいから」と
いう一言でガチャン。腹が立つや
ら、ほっとするやら。
●月●目
患者様は常に弱者だからわがま
まを聞いてあげなければならない
のだが、無性に腹が立つことがあ
る。
長年義歯で苦労をしてきた老人。
会社を経営しているジェントルマ
ンだ。下顎の前歯部だけがブリッ
ジで残存しているが、他は義歯。
特に上顎はすぐ落ちてくる。「見栄
えなんかどうでもいいから、とに
かく入れ歯が落ちなければいい」
という患者の希望を叶えるべく、
インプラントをしてオーバーデン
チャーを作った。
セットしたら、義歯は落ちなく
てよいが歯並びが気に入らないと
いう。下顎の残存ブリッジが少し
大きくて前突しているために義歯
が少し出っ歯気味に感じるらしい。
ロウ義歯の試適の段階で何度も修
正したあげくの結果だ。術者側の
目からみれば決しておかしくはな
いのだが、患者さんの満足が得ら
れないのは気分が悪い。しかもこ
の患者さんはアポイントをいつも
きちんと守るし、物腰も柔らかく
感じのよい人だ。どうしても気に
入らないというので再製すること
にした。
再び試適の段階。なるべく前突
にならないように切端咬合気味に
配列した。若干バイトを低めにし
て歯が見える量を少なくした。ロ
ウ義歯を口腔内に入れてみるとや
っぱり気に入らないという。チェ
アーサイドでああでもないこうで
もないと、さんざん配列をやり直
してみたのだが満足してもらえな
い。僕は少々イラついてしまった
ので、改めて時間を予約して、次
回また試適を行うことにした。
ところが予約の日に来ない。こ
れまで一度もアポイントを変更し
たり遅れたりしない患者さんだっ
たのに。受付が電話をしても連絡
が取れないままだ。
僕のぞんざいな態度に愛想が尽
きたのか、診療に満足できず見切
りをつけたのか? 治療費ももら
っていないし、患者さんに嫌われ
てしまったことにもいささか落ち
こんでいた。
そんなところに新患が。知り合
いのある会社社長がインプラント
をして義歯を入れたら具合がよく
て見た目もいいというので、自分
も治療を受けたいという。よくよ
く話を聞いてみると、その会社社
長というのはくだんの患者さん。
なんだ、満足していたんじゃない
か! いろいろクレームをつける
ことで治療費の支払いを渋ってい
たんだ!!! こりゃ詐欺じゃないか。
僕はカリカリしながら受付に言っ
た。
「すぐに請求書を送りなさい!!」。
(デンタルダイヤモンド 1995年11月号掲載)
投稿者 takagi : 12:43 | コメント (0)
「歯内療法」
●月●目
診療中に腹が立っこと。
若くて(?)綺麗な(??)衛生
士が側にいてくれるだけで幸せな
はずなのに、突如としていら立ち
の原因になることがしばしば。
エックス線写真。確かこの患者
は右上の4番の抜髄のはずなのに、
シャーカステンには左上のエック
ス線写真がかけてある。あれれ、
と思って患者の口腔内をのぞき込
むと、やっぱり右上が患歯だ。よ
くよくシャーカステンの写真を見
直すと裏返し。「おいおい、注意し
てくれよ。小さなミスが、大きな
過失を生むんだから」
衛生士に「抜髄の用意」と言っ
たはずなのに、麻酔の用意までは
よかったが、次に出てきたのが抜
歯鉗子とエレベーター。「おい、耳
が遠いのか?」
根充のとき。シーラーを練って
もらう。練板から流れるくらいに
ゆるい。「もっと粉を入れて、もっ
と練り込め」と注文。今度は硬す
ぎてボソボソ。「おいおいおい、加
減というものを知らないのか!」
僕が立ち上がろうとしたとき、
いきなり無影灯に頭をゴツン。
衛生士を怒っちゃダメ。恨まれ
パラノイアの事実
て、仕返しされる。小さな怒りは、
大きな恨みを生むんだから。
●月●日
診療中に腹が立っこと。
前医の処置の悪口は、絶対患者
には言ってはいけない。でも、前
医に腹が立っことはよくある。
エックス線写真を見ると、鋳造
冠がかぶさって、根管には根充材
らしきものを認めない。クラウン
のやり直しをするのだが、生活歯
だからというので麻酔をする。さ
て、クラウンの除去。ずいぶん硬
い。「いくらニッケルクロムが安い
からといって、こんなにカントゥ
アーをつけて、しかも厚みをもた
せて金属をふんだんに使わなくて
もいいじゃないか!」と、イライ
ラしながらタービンで削る。金属
の屑が飛ぶ。ゴーグルをかけて削
っているのだが、細かい金属の粉
が顔に当たる。ゴーグルの隙間か
ら目の中に入り込む。タイム・イ
ズ・マネーと割り切り、新しいダ
イヤバーを2本も使ってようやく
クラウンを除去すると、歯冠部分
はほとんどがセメント。セメント
を削除していくと根管にはワッテ
が詰め込んである。失活歯だった。
ちくしょう。
再びエックス線写真。太くて長
いポストコアの入った大臼歯。こ
ういうときに限ってプアーな根充。
根尖病巣もある。ちゃんと根充で
きなかったら、こんなでっかいポ
ストを入れるなヨ!!と、小心者
は心の奥底で叫び声をあげるので
した。
●月●目
診療中に腹が立っこと。
病状はないのだが、エックス線
写真を見ると根管充填が甘い。「か
ぶせる前に根っこの治療をやり直
しましょう」と、嫌がる患者をよ
うやく説得して始めた歯内療法。
いざ根管を開けようと思ったが、
それがなかなか開かない。狭窄根
管だ。やっとの思いでなんとかか
んとか15番のリーマーが通った。
「さあ、拡大だ」と思って20番のK
ファイルを入れて4分の1回転し
た瞬間にファイルが折れた。Kフ
ァイルを挿入する直前に、先端部
分が少しヨレヨレになっていたの
が気にはなっていたのだが。
背中にびっしょり汗をかいて、
折れたファイルを除去。根管の拡
大も済み、いざ根充。患者に「大
きく口を開いててくださいね」と
言って、ガッタパーチャポイント
を調整している最中に、口の中に
は唾液があふれる。衛生士に「バ
キューム!!」と叫んでも、時すで
に遅し。せっかく乾燥させた根管
が唾液の洪水で水浸し。「あーあ、
最初っからやり直し」と、ブツブ
ツ独り言を言いながら、横着して
ラバーダムをかけずに治療してい
た自分に腹を立てる。
即座にメタルコアのために根管
を形成。アンダーカットを作らな
いようにと、何度もしつこくバー
で形成していたら、どこかで「バ
キッ」という音がしたような、し
ないような。こわごわ歯に光を当
ててよーく見てみると、破折線。
「ゾーッ」。ETかジョーズにでも
出くわしたかのような鳥肌のたつ
思い。患者には、「どうもこの歯、
治療の甲斐なくもたないようで、
抜かなければなりませんねぇ」な
どと、しどろもどろになってムン
テラしている。
何も"しない"療法のほうが、
患者にとっても自分にとってもは
るかによい治療だったかもしれな
いと思うと、情けないやら、腹が
立つやら。自業自得。つけは結局
自分に回ってくる。
(デンタルダイヤモンド 1995年5月号掲載)
投稿者 takagi : 12:42 | コメント (0)
「審美歯科」
●月●日
僕は、コ・ギャルの間で流行っているプリント倶楽部(略してプ
リクラ)にはまっている。今日も女子高生に混じってプリクラを撮
るためにゲームセンターに並んだ。
さすがにひとりでは照れくさいので、スタッフの女の子を誘って
撮りに行ったのだが、「先生ちょっとここで並んで待っててくださ
い。私たちちょっと UFOキャッチャーやってきますから」と、
僕は女子高生の列に置き去りにされた。
説明は不要と思うが、世間知らずの堅い御仁のために解説すると、
プリクラというのは、証明書などに貼るための3分間写真みたいな
もので、デジタルカメラで自分の顔写真を撮るのだが、写真にはメッ
セージや飾りのフレームが写し込める。そのメッセージやフレームが
季節によっていろいろなものが選択でき、しかもお茶目なものが多い。
キティちゃんやお猿のモン吉君などのキャラクターも一緒に写し込
めるものもあって、女子高生に限らず、四十過ぎのおっさんにも十分
楽しめる。
うちの技工士さんだって2児の父親だが、どらえもんと写っている
プリクラを撮って衛生士たちにうらやましがられていた。写真は切手
くらいの大きさで16枚が1シートになってすぐにプリントアウトされ
てくる。しかも裏面がシールになっているのでどこにでも貼れる。
携帯電話や手帳、名刺などに貼って使える。友達同士交換してコミ
ュニケーションのツールとして今、爆発しているのだ。
"医薬自然のまま"高血圧arterielle
これまで、日本人は写真に撮られるときには、旅行のスナップ写真
も証明書の写真も、結婚式の写真もみんな同じで一様に口を閉じ、
神妙な顔をしたものがほとんどだったように思える。せいぜいぶっ
きらぼうに指でVサインをしているくらいなものだったのが、プリ
クラによって表情のある顔写真が巷で多くみられるようになった。
プリクラの機械の側にはおびただしい数の撮影済みのシールが貼
ってある。みんなにこやかに写っていて、他人の写真を見ていても
楽しい。でも、気になったのは近頃の女子高生はみんな顎が尖って
いて、歯並びが悪い。
やっぱり日本人は、歯を見せない方がよいのだろうか。
●月●日
近頃では山形のような地方でも患者さんの審美に関する欲求は高
くなってきており、補綴に際しては「白ければ良い」だけでは済ま
なくなってきた。周りの歯との色調や形態のマッチはもとより、唇
の膨らみ加減やスマイルラインなど患者さんからの要求が厳しい。
上顎の6前歯を治療している初老の女性Iさんも、なかなか難し
い人だ。もともと叢生だったのを抜髄をしてメタルコアで歯軸を変
え、テンポラリークラウンで歯列を整えてきた。いよいよファイナ
ルに移行するという段階で、患者さんは「治療前と顔が違う」とク
レームをつけてきた。
歯列を整えたから若干の口唇の膨らみがでてきたせいかもしれな
い。歯列そのものは悪くないと思う。問題は口唇とのバランスだろ
うと、調整することにした。
参考にしたいからと、患者さんに昔の写真を何枚か持ってきても
らった。見てみるとすべて口を真一文字に閉じて、口輪筋を相当に
緊張させているものばかりだ。歯列にコンプレックスを持っていた
せいか、どの写真も歯は見えない。口唇は緊張しているので薄く見
える。
歯列が整った現在は、ちょっとスマイルすればいい形で前歯の切
縁が見えるはずなのだが、どうもIさんはスマイルが下手だ。リッ
プインプレッションを採る際にもあんまり口唇を横に広げるものだ
から漫画のオバQのようにしか採れない。
"ウイスキー"と言うときの口をしてIさんに「こんな風に笑って
みて」というのだが、ひきつってうまくできない。終いには、Iさ
んも、僕も、傍らの衛生士もみんな涙目になりながら必死に「ニー」
っと無理に笑顔を作っている。
スマイルというのは「苦笑い」だということがわかった。
投稿者 takagi : 12:41 | コメント (0)
「テンポラリークラウン」
▲月▽日
上顎前歯部の補綴処置では、テンポラリークラウンが必要だ。
3本メタルボンドの形成をして、テックを調整。マージンや形態
を修正して仮着した。
「次回には最終的なセラミックの歯が入りますから」と目を細め
ながら患者に説明して、受付に次回、治療費の入金をお願いするよ
うに指示した。
▲月▲日
メタルボンドセットの日。僕は鼻歌交じりの診療。仕事が終わっ
たら、ちょっと一杯呑みに行こう。今晩はちょっと奮発して吟醸酒
を呑もう。それに花咲蟹を食っちゃおうかな、などと舌なめずりを
していた。
ところが夕方になっても、メタルボンドの模型は棚に置きっぱな
し。診療が終わって、受付に訊ねた。
「Yさん、今日はキャンセル?」花咲蟹の鮮やかな朱色がなんとなく
頭を過ぎる。
「連絡なしのキャンセルです」
「ちょっと、電話して確認してみて。ちゃんと次の予約日を決めて
おいてね」花咲蟹が消えて、焼き鳥の茶色が頭を過ぎる。うーむ。
今夜は酎ハイで我慢しよう。
Yさんに電話を入れた受付嬢が
「仮歯で満足しているので、そのままで良いといってますが…」
「なに!?」たちまち、焼き鳥も酎ハイも消えた。
○月△日
不良補綴物が多く咬合平面も乱れているような口腔の治療では、
テンポラリークラウンは、とても重要だ。まずはテンポラリークラ
ウンに置き換える処置から始まる。
「仮歯って簡単にはずれませんか?それに壊れませんか?」と不安
げな患者に、くどくどとその有用性を説明して、不適合な6本ブリッ
ジをテンポラリークラウンに。
「もし、次の治療まで仮歯がはずれるようなことがあったら、すぐ
に連絡して来てください」と患者に伝え、次回の予約を取った。
数時間後。くだんの患者から電話が入る。「お昼の食事をして
いたら、仮歯がはずれちゃったんです」来院してもらい再度仮着。
僕は頭を掻きながら「今度はしっかり着けましたから」
○月▲日
翌日再び電話が入る。「今度は仮歯が割れてしまった…」
「すぐに来てください。作り直しますから」患者との信頼関係は、
たちまち崩壊。最終補綴までは、まだまだ遠い道のり。
○月×日
初期治療でスケーリング・ルートプレーニングも終え、ブラッシ
ングも上達した歯周病患者のOさん。しかし、未だにポケットも深
いし、動揺している歯も多い。補綴すべき歯が多いが、補綴の設計
も難しいのでとりあえずテンポラリークラウンをかぶせてある。
Oさんはブラッシングに熱心。「早く治りたいですから」と、い
つも衛生士に熱っぽく語っている。
○月▽日
いつものように歯垢の染め出しを終えて「今日もスコアが一桁。
良く磨けていますね」と、Oさんに話しかけると、
「先生いつになったら最終的な歯が入るのですか?」と訊ねられた。
うーむ。「もうしばらく、仮歯で様子を見ていきましょう」とは、
答えたものの、治療のゴールが見えないまま患者を引きずっていく
のは具合が悪い。かといって、歯が全部抜けたら最終補綴物として
の総義歯を作りますよ、とはなかなかいえない。
○月○日
安全会議を窒息させる
保険で治療を進めていた患者。下顎の小臼歯の支台形成を終えて
次回のクラウンセットまでの間にと、即重レジンでテンポラリーク
ラウンを作って仮着した。にわか作りのテックなのであまり形は良
くない。患者に鏡を見せて「仮歯ですから…」といいわけがましく
納得してもらう。
○月×日
テックをはずして、歯面を清掃して完成した金パラのフルクラウ
ンを試適。「こんな風に入りますが、いかがでしょうか?」と、鏡
を見せながら説明する。
「今までの仮歯の方が、白くて良かった」といって、金パラのピカ
ピカのクラウンが気に入らないらしい。
患者は、(あまり出来の良くない)テックを戻してほしいと強く
要求するものだから、また仮着した。完成したフルクラウンは、
「記念に持っていく」と、患者はティッシュに包んで持ち帰った。
テックがはずれたり壊れたら、すぐに金パラのクラウンを持って
きてください。合着しますから…。
●月●日
久しぶりのコーヌスデンチャー。気合いが入った。コーヌスの内冠
をセットして仮義歯を装着。仮義歯の外冠部分は、レジン製テンポ
ラリークラウンに。
「もうできたのですか?ガタつかないし、見た目もいいわ」という
患者に、
「まだ、仮の状態です。出来上がりはもっとよくなりますよ」と、
得意げに僕は目を細めた。
●月○日
いよいよ完成したコーヌスデンチャーのセット。ぴったり!仮歯
よりずっときれいでしょ、と自慢げに患者に鏡を差し出した。する
と患者は不満顔。
「歯肉のところの金属がちょっと見えるのがいやだわ。それに仮歯
に比べると重くて、はずれやすいみたい…」
テンポラリーに軍配が上がることは、しばしばある。
投稿者 takagi : 12:40 | コメント (0)
「治療計画」
●月●日
「やせる石鹸」というのが流行った。その効き目は、というと、
「すごくやせた」というのは全く聞いたことがない。
「ほとんど効果がない」というのが実状らしく、買う方も買う方だ
が、その効果の信頼性も曖昧なままに大々的にPRして売る方も売
る方だ。今ではみんな笑い話にしている。
「やせる石鹸」に限らず、近頃は「やせるガム」とか「やせるベ
ト」とか「やせるナントカ」が人気だ。僕も近頃お腹の脂肪が気に
なりだしてオオバコダイエットを試みているところだが、その効果
は如何に。
お腹の出っ張りも気になるが、額の後方への拡大化も気になって
いる。洗髪のたびに排水溝に絡まる抜け毛に恨めしい視線をおくっ
ている今日この頃。
親戚一同の顔を思い浮かべても、我が家系にはハゲはいない。死
んだ父だけがハゲに限りなく近かったが、それは遺伝的なものでは
なく、浴室に置いてあった浴槽洗いのバスピカをシャンプーと間違
ってしばらく使っていたことによる後天性のものだと信じて疑わな
かった。
けれども最近不安になって、僕は「育毛スプレー」を購入した。
シュワワーーッと頭皮にしみこむ感じが、「血行を良くしている」
「毛根に栄養を与えている」ような気にさせる。スプレーの後に、
「十分にしみこめ、しみこめ」と念じながら頭皮のマッサージをす
る。
これで明日の朝は頭髪がフサフサになっているようなシアワセの
予感に包まれて眠りにつくのだ。が、翌朝目を醒ますと枕に抜け毛
が何本もへばりついているのを、僕は恨めしい流し目でちらと見る。
うーむ、スプレーが足りなかったかな、と思いながら家を出る前に
シュワワーー、シュワワーー、シュワワワワーーッとたっぷり振り
かけてみる。そんな毎日を過ごしているのだが、髪の毛を気にする
ようになったら、抜け毛の量がどんどん増えてきた。
「気にすると、余計にストレスになって毛が抜けるもんだよ」と
周りの人は言うが、気にせずにはおれないのが中年のオッサンのせ
つない胸の内なのだ。
ふと思った。もしかしてこれは育毛剤と称して、その実脱毛剤な
のではないだろうか、と。育毛剤を使う人は、少なからず(大いに)
頭髪にコンプレックスを抱いているわけで、藁をもつかむ思いで
日々シュワワーーッとスプレーして、指先を立ててマッサージに励
んでいる。企業がこれを逆手にとって、つければつけるほど毛が抜
けるようにしておけば、消費者は「効かないなこれ…」と、暗い目
をしてシュワワーー、シュワワーー、シュワワワワーーーと大量消
費し、さらにどんどん値段の高いものを追求していくことになる。
まさかとは思うが、不景気な折りエコノミックアニマルの悪徳企業
がないとは限らない。悲しいかな、人間は窮地に追いやられると卑
屈になって、悪い方に悪い方にと考えてしまう。笑うに笑えない。
我が職業、歯医者に目を転じてみる。「虫歯ができたみたいなの
で診てください」と初診の患者さん。上顎の中切歯の隣接面にけっ
こう大きなう蝕があった。治療の方針として、1)歯髄を保存して充
填、2)抜髄してから充填、3)抜髄してから前装冠、という3つの手
段が頭に浮かんだ。
1)歯髄を保存して充填処置:極力歯髄を保存することは、歯科医療
としての最低限のモラルのような気がする。しかし、治療後歯髄炎
を起こして痛がったりしないだろうか。グラスアイオノマーを使う
手もあるが、色調がコンポジットレジンに比べるといまいち…。
いろいろ神経を使って治療をしても、症状が出てくればやぶ医者に
思われてしまう。それに一番安い。
2)抜髄してから充填:抜髄してしまえばとりあえず治療後の痛みや、
レジンの刺激による歯髄炎の心配はなくなる。なるべくエナメル質
を削らない方が良いと思うのだが、コンポジットレジンが変色した
り脱落したら、評判悪くなるかな…。
3)抜髄してから前装冠:エナメル質の削合は大きくなるが、治療は
しやすい。前装冠にすれば収入も多い。セラモメタルだったら自費
診療だし…ウッシシ。
頭の中を様々な思いが駆け回る。患者にとって一番大切なことが、
術者として一番やりがいのあることに一致しないものだ。
とても、笑い事ではない。
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(96.2.10)
デンタルダイヤモンド96年5月号/私の診療日記 掲載
投稿者 takagi : 12:38 | コメント (0)
「抜歯」
●月●日
口腔外科にしばらくいたから、抜歯には自信がある。
たいていの抜歯は、チョチョイのチョイの朝飯前だ。
午前中の診療も終わりかけた頃、クラウンが脱離した
と、予約外の新患がやってきた。再セットすればすぐに
済むだろうと、患者も僕も考え、にこやかに初対面。
「さっき、取れちゃったんですよ」と差し出されたテッ
シュに包まれたパラジウムのフルクラウンを見ると、虫
歯になった歯質がクラウンの内面に詰まっている。
口の中を覗くと、下顎の小臼歯が残根状態。おまけに
歯肉が半分以上覆っている。「これは、抜かなくちゃい
けませんね」と、患者に話すと「痛みはないし、取れて
間もないからとりあえず戻せないか」と懇願する。
僕は、この残根を保存してもあまり価値はないと判断
し、腹も減っていたので、「いや、持ちませんね。すぐ
抜けますから今日抜いちゃいましょう」と言って、衛生
士に抜歯の用意をさせた。早く終えて昼食に酢豚定食を
食べようと決めていた。
麻酔を終えて、エレベーターで抜歯を試みたが、なか
なか脱臼しない。レントゲンを何度か見直す。うーむ。
こりゃ、癒着しているかもしれない、と思いながらエレ
ベーターをこね回す。歯質がボロボロでエレベーターが
うまくかからない。額には汗がにじむ。酢豚定食が、頭
の中に一瞬よぎる。腹がグーと鳴ったりする。
「メスと剥離子の用意を!」と、空腹も手伝って声を荒
げて衛生士に指示。難抜歯となってしまって、患者は悲
痛な表情。
こちらは「いやぁ、だいぶ根っこが腐っていたもんで」
と、しどろもどろの弁解。患者は何も言わずに、頓服の
鎮痛剤を受け取り、不信感の目つきで帰っていった。
朝飯前の抜歯も、昼飯前ではうまくいかない。食欲を
なくして、ざるそばをズズーっとすすった。
●月●日
口腔外科にしばらくいたから、抜歯には自信がある。
しかし、いかに歯を保存できるか、ということが名医の
条件だと思っている。
「歯を抜いてほしい」と老人の新患が来た。口の中を
覗いてみると、ブラッシングが悪くて軽い歯周炎がある
くらい。特に抜歯が必要な状態ではない。
「まだ、抜かなくっても大丈夫ですよ」と、説明しても
是非抜いてほしいという。
「あんたは、まだ若いからわからないかも知れないが、
年をとって身体が動かなくなると、歯なんか邪魔になる
だけなんだ」と言う。
詳しく話を聞いてみると、寝たきりになった友人を見て
いると、みんな歯で苦労しているというのだ。どうせ、
あんまりまともな食事もできないのだから、歯なんかい
らないし、痛くなって我慢できなくなるよりは、今のう
ちに抜歯しておいた方が周りの人に迷惑をかけずに済む、
というのがこの患者の主張である。
僕は、寝たきりになったことを考えたりするよりは、
今歯を大事にしておいしい物を食べる喜びと、生涯今の
健康を維持するように務めた方がいいという説得をした。
しかし、約1時間の雑談を終えてユニットを降りるときに、
「歯も抜けないひよっこ歯医者だったのだな、ここは。
よそにいって抜いてもらう」と呟いた。抜歯の腕前だけが
歯医者の評価だと言ったこの患者のことを思い出しながら、
僕は痛んだ胃袋に、親子丼を急いでかき込んだ。
●月●日
口腔外科にしばらくいたから、抜歯には自信がある。
しかし、歯を保存しようと思う気持ちは人一倍強い歯医
者だと思っている。
「歯を入れたい」とやってきた新患。口の中を覗いて
みると、残根とグラグラになった歯ばかり。パノラマレ
ントゲンを患者に見せて根尖病巣や歯槽骨の状態を説明
し、抜歯を勧めるのだが、「抜きたくない」と患者は訴
える。義歯を作るためにはどうしようもない歯をはじめ
に抜かなければいけないことをいくら説明しても、納得
してくれない。仕方がないので、とりあえず残根の突起
部分を削合してオーバーデンチャーを作ることにした。
動揺の強い歯は、鉤歯には役立たないがそのうち自然脱
落するだろうと考えた。しかし、こんな状況で噛める義
歯ができるかどうか、自信がなかった。
自信がないままに、義歯の印象をした。印象を口腔内
からはずすと、歯が二本取れてきた。麻酔不要で出血も
しない、「印象抜歯」である。うがいを済ました患者を、
僕はおそるおそるのぞき込む。グラグラしていた自分の
歯がなくなったことに気がついた患者は、急に目を細め
て微笑んだ。
「さすが、高木先生。抜歯がうまい」
久しぶりに誉められた。
----------------------------------------------
96.8.11.
(デンタルダイヤモンド96年11月号/私の診療日記掲載)
投稿者 takagi : 12:36 | コメント (0)
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